電話番号とSNS(例えばFacebook)、どちらが優れているでしょうか。今回はそんな話です。
読者の皆さんの多くは、スマートフォンでTwitterやFacebookのアプリを開き、さまざまな情報を集めたり、発言したり、コミュニケーションを取ったりしていると思います。
またLINEやFacebookメッセージは、電話やメール、SMSの役割を兼ね備えていますし、グループでのコミュニケーションを実現しています。国境を越えたコミュニケーションのしやすさは、スマートフォン以前と以降で、大きく変わりました。
私は米国でiPhoneを契約し、米国の電話番号を持っています。そのため、日本の人から電話やSMSを受け取ろうとすると、国際電話/国際SMSになってしまいます。しかしLINEやFacebookメッセージを用いれば、相手がどこの国の番号を持っていようが、データ通信だけでコンタクトを取ることができます。
スマートフォンは、世界各国の「モバイル体験」を共通化しています。
フィーチャーフォンは日本で特に発達しましたが、米国のフィーチャーフォンはiモード以前の状態のままでした。しかしスマートフォンは、iPhoneでもAndroidでも、世界で共通の環境であり、共通のアプリを利用でき、通信速度と料金以外の差異はなくなりました。
日本でiPhoneを使っていて、米国に引っ越してこちらのiPhoneを契約したときの安心感といったら、今でも5年前のことを思い出してホッとできるほどです。
ボーダーレスでのコミュニケーションが手軽になった現代において、この5年間で筆者がモヤモヤと感じてきたこともありました。
筆者は突然Facebookが苦手になった
筆者はFacebookに関する書籍を書いたことがあるほど、Facebookを始めとしたSNSにポジティブです。人がつながる仕組み、何かを交換する仕組みについては大学時代から興味があり、モバイルによってこれがパソコンの前に座っていない時間にも拡大されていく、そんなダイナミズムを感じてきました。
しかし、米国に来てしばらくして、Facebookをあまり見なくなりました。その理由についてあらためて考えてみると、情報のボーダーレス性と住んでいる場所や時間の差についていけなくなったのではないかという結論にたどり着きます。
もう少し簡単に言えば、「欠席の日に席替え」「欠席の日に遠足」「欠席の日に給食で揚げパン」。
米国にいながら、日本の友人の日々の出来事や東京の話を見るのは、日々の些細なイベントが、自分不在で展開されていく、学校を欠席した時のそれに似ています。小学生の頃は、席替えが些細なことではありませんでしたが。
目的を持って米国に来ているので、そこに後悔はありませんが、自分がいない東京の話を見ることは、さほど心地よいものではない、ということに気づかされたのです。
別にSNSデトックスをしたいとか、友人が嫌いになったとか、そういう話ではありません。もう少し冷めた言い方をすれば「自分には関係ない世界の話」に興味がなくなったということでもあります。
今でもSNSより電話番号の方が大事なアメリカ
この話は、世間で語られるFacebook疲れに分類されるのかもしれません。SNSによる情報と体験の乖離を、太平洋を挟んで経験しているわけですが、最近、遅かれ早かれ、東京にいても起きていたかもしれないと思うようになりました。
一方、米国でのスマートフォンを用いたコミュニケーションを見ていると、あることに気づきます。それは、スマートフォンになってもなお、SNSがコミュニケーションの中心ではないということです。その代わりに用いられているのは電話番号でした。
米国の人たちは、本当に電話をよくしている印象があります。たとえば駅から筆者の自宅までの15分ほどの道のりで、特に仕事終わりの夕方は、電話をしながら家路に就いている人がほとんどです。クルマでもハンズフリーで通話を楽しんでいるし、筆者もコンタクトがあると取りあえず電話です。
次いでSMS(Text)。これならSNSアカウントを持っていなくても、iPhoneだろうがAndroidだろうが、フィーチャーフォンであっても、ちゃんとメッセージが届きます。
また、連絡手段のヒエラルキーの違いも面白いです。日本だとLINEは交換しても電話番号は教えない、Facebookでやりとりしてても電話番号は教えてないといったように、「電話番号を教えること」に対する抵抗感があります。しかし米国ではその逆の感覚が存在していて、電話番号は教えてもFacebookは教えないということがありえるのです。