スマホメーカー栄枯盛衰~山根博士の携帯大辞典

なぜ三菱電機の携帯電話事業撤退は「英断」と言われるのか

文●山根康宏

2018年02月11日 12時00分

 Triumシリーズの各製品には型番ではなく、宇宙をイメージする製品名が付けられました。1999年の携帯電話のモデル名は「Trium Astral」「Trium Galaxy」「Trium Geo」。そして2000年には「Trium Cosmo」「Trium Mars」「Trium Neptune」「Trium Sirius」と、次々と製品を増やしていきます。今のスマートフォン時代を代表するサムスンの「Galaxy」シリーズの登場のはるか前に、三菱からもGalaxyが出ていたのは知られざる過去と言えるでしょう。

 さて2000年当時、スマートフォン市場はようやくノキアからSymbian OS搭載の「9210 Communicator」が出てきたものの、そのころスマートフォンという言葉は一般的なものではありませんでした。ノキア以外の製品では、Pocket PC OS機の一部に携帯電話機能が内蔵されており、通話や回線交換式でデータ通信を可能にしたものがありました。とはいえ当時はまだPCのデータを持ち運ぶ端末としてPDA=モバイルデバイスが利用されており、OSのシェアはPalm OSが過半数を握っていました。そのPalm OSを追い上げていたのが、マイクロソフトのPocket PCだったのです。

Pocket PCを採用したTrium Mondo

 三菱も海外でTriumシリーズの最上位モデルとしてPocket PC 2000をOSに採用した「Trium Mondo」を2001年にイギリスで発売しました。携帯電話の最上位モデルであり、PCのコンパニオンと携帯電話を融合した製品として注目を浴びたのです。通信方式はGSM900/1800MHzに対応するとともに、イギリスではじまったばかりのパケットデータ通信方式であるGPRSに対応したのです。それまでのモバイル端末でのデータ通信は回線交換式の「CSD」方式で料金は従量式。57.6kbpsと高速な「HSCSD」方式は4回線分を一度に使うため、料金も4倍になるなど使いにくいものでした。しかしTrium Mondoはデータが流れた時だけ課金されるというパケット通信を採用し、メールやWEBの利用も今のスマートフォンのように手軽にできるものになったのです。

 Trim Mondoのスペックはディスプレーが3.9型320x240ドットで、当時としてはかなり大型のもの。しかしながら表示はカラーではなくグレースケールでした。これはコストと当時のカラーディスプレーの品質、ターゲットユーザーがビジネスユーザーであることを考えれば妥当なものでした。しかし価格が高かったことから、企業向けの導入も含め販売数はあまり伸びなかったようです。

スマホへの本格参入を前に市場撤退、タブレットでの復活に期待

 2000年当時はHPやコンパックがPocket PCで強さを発揮していましたが、Palm OSの牙城はなかなか崩せず、ノキアが2002年にSymbian Series 60 OS搭載スマートフォンを出すと、市場は一気にSymbian天下へと向かっていきます。三菱も同じPocket PC勢との争いのみならず、Palm OSそしてノキアの前にスマートフォン後継機を出す戦略は断念し、フィーチャーフォン重視路線へと走っていきます。

 海外ではノキア、エリクソン、モトローラが強さを増し、他のメーカーとの販売数の差を広げていきました。そして日本はほどなくしてiモード天下時代を迎えます。ドコモは季節ごとにメーカーに新製品を発注し、メーカーは安定した数を定期的に生産することができました。さらにドコモは2002年から海外でもiモードを本格化させます。三菱としてはスマートフォン系端末に注力するよりも、iモード向けフィーチャーフォンを強化し、その派生モデルを海外のiモード事業者へ投入することで販売数拡大を目指したのです。

 2002年末に海外に投入した携帯電話「M320」から、Triumブランドをやめ三菱の頭文字である「M」を型番に付与します。そして2003年には初の海外向けiモード携帯「m21i」をリリース。海外でもモバイルインターネットユーザーが増加し、三菱の未来も明るいものになると見られていました。しかしその後海外iモードはドコモの戦略ミスで失速し、実質的に数年でユーザー離れを引き起こします。三菱の海外携帯電話事業も2004年に終了してしまいました。

 さて日本国内は海外のようにノキア/Symbian OSが入り込む余地は無く、iモードを中心とする携帯電話インターネットビジネスが活況でした。「日本の携帯電話は世界一」。2000年代中盤はそんな時代だったのです。三菱も2005年から2007年は年間6機種も新製品を発表。2004年に発売した「Music Porter」はシリーズ化され3年連続モデル化されましたし、2007年には2画面タッチパネルの折り畳み型「D800iDS」を出すなど特徴的な製品を次々と送り出していきました。

スマートフォンとして出てきてもよかったD800iDS

 しかし2008年になると三菱は携帯電話事業からの撤退を発表します。背景には日本の携帯電話市場が飽和したこと、ドコモが実施してきた「端末を安価に販売し料金で回収するビジネスモデル」に変化が起きたことなどがあります。キャリア主導で季節ごとに新製品を出し買い替えを促すという日本独自の携帯電話ビジネスの終焉は、三菱の携帯電話事業に引導を渡してしまったのです。

 とはいえ、ここでの撤退は勇気ある英断だったと言えるでしょう。携帯電話の世界が閉じた世界からインターネットへとつながるオープンな時代へと移行し、スマートフォン時代を迎えることになります。2007年に登場したiPhoneはそれまで世界を牛耳っていたノキアの地位を低落させただけではなく、「日本の市場は独特」と言い放っていた日本の携帯ビジネスも過去のものにしてしまいました。その後のiPhoneの爆発的な普及を考えると、結果として三菱は大きなダメージを受ける前に撤退できたのです。

 三菱の携帯電話の歴史の中で、スマートフォンと呼べる製品は海外向けに1機種のみでした。しかし日本向けの特色ある製品たちにオープンなOSを乗せスマートフォン化していれば、海外でも人気になったかもしれません。とはいえ2000年代中盤の絶頂時代に、単独で海外市場へ乗り出すほどのリスクは取れなかったでしょう。三菱のスマートフォン市場への再参入は無いでしょうが、過去に多数の名機を送り出してきたことは忘れてはならないのです。

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