情報の取り扱い説明書 2015年版

SNSの違和感は膨大な量のニュースと、日々届く無数の感動が原因? (1/3)

文●高橋幸治、編集●ASCII.jp

2015年06月10日 10時00分

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この記事は連載「情報の取り扱い説明書 2015年版」の2回目で、「SNSをやめる人が続出? なぜTwitterは面白くなくなったのか」の続きです。1回目と合わせてご覧ください。

 先週掲載された第一回が思いのほか反響があり、異論や反論も含めてまことにうれしい限りである。タイトルがちょっと煽り気味だったせいもあってか、「嫌ならやめちまえ」的な声もいくつか見受けられたが、別に私、ソーシャルメディアを否定しているわけじゃないですからね。

 ソーシャルメディアをめぐる状況を中心に(むしろ、それくらいソーシャルメディアの存在は無視できないということ)、現在のわれわれを取り囲む情報環境の変化を、良い悪いの判断を一旦保留して、じっくり考えてみましょうということである。

 で、今回はその反響に応える形で予定を少し変更して、ソーシャルメディアとマスメディアの状況について、もう少し掘り下げて考えてみようと思う。

マスメディア特有の現象であった「ニュースの製造」

 読者の方々の意見の中にはこれから私が書いていこうと思っているテーマを先回りして指摘しておられる例もあった。勇気づけられると同時に、若干「言われちゃった」感もあるのだが、今回はかなり多くの方がこぼしていた「真偽の定かではない情報の氾濫」について、メディアが不可避的に持っている「ニュースの製造」という特質から論及してみたい。

 前回、あらゆる場面で「メディアの液状化」が進行しているのではないかという仮説を展開した。大雑把に言えば、マスメディアが必死にソーシャルメディア的なものを取り込もうと腐心したり、ソーシャルメディアがある部分でマスメディア化してしまっているということである。

 そうした状況下では、かつてマスメディア特有の現象と思われていたものが、ソーシャルメディアにおいても起こり得る。いや、現に起こっていると考えることもできる。そのひとつがニュースの製造という事象だ。

(次ページでは、「なぜニュースを製造するのか」)

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