われわれが持っている「とほうもない期待」
1960年代に米国の学者であるダニエル・J・ブーアスティンがマスメディアに対して行なった鋭い批判があるが、ちょっとここで、ブーアスティンの主著である「幻影の時代―マスコミが製造する事実」(現代社会科学叢書)の中の一節を見てみよう。
――われわれは、とほうもない期待をいくつか持っているが、その中でも最も単純なものは、莫大な量の新しい事件が世界に起こっているに違いないという期待である。たいしたニュースが載っていない新聞を読んだ後で、読者が「きょうはなんて退屈な日なんだろう」とつぶやいた時代もあったが、現代の読者なら「なんて退屈な新聞だ」と叫ぶことだろう。(中略)成功した記者とは、たとえ地震や暗殺や内乱がなくても、ニュースを見つけ出すことができる人間のことである――
Image from Amazon.co.jp |
ダニエル・J・ブーアスティンの「幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 」(現代社会科学叢書)はマスメディア批評として有名。ブーアスティンのほかの主な著書としては「過剰化社会―豊かさへの不満」などがある |
このブーアスティンの言葉の根底には「メディアが先か、コンテンツが先か?」という問題が潜んでいる。
とても身近な例に換言すると、「みんながつぶやきたくなったからTwitterができた」のか、「Twitterができたからみんながつぶやきたくなった」のかということだ(別にFacebookでも何でもいいのだが)。インターネットの登場によってCGM(Consumer Generated Media)的な素地が形成されつつあったとはいえ、実態はやはり後者だろう。
メディアは人間に新しい欲望を植え付ける。もはや情報の受動的な受信者ではなくなったわれわれは、情報の能動的な発信者として、日々、どこかに投稿するためのニュース=情報を作り出すようになった。
明治3年に日本の初の日刊新聞として刊行された「横浜毎日新聞」の12月8日付創刊号を見ていただきたい。
「おいおい」と突っ込みたくなるくらいのスカスカぶりである。なぜこんなに紙面が埋まっていないのか? 創刊直後で編集部の体制が整い切っていないとか、現在のように黙っていてもニュースリリースが舞い込んでくる時代ではないとか、理由はいくつかあるのだろう。
だが、ブーアスティンの観点に立てば、おそらくまだニュースというものが「発見」されていないということだ。「莫大な量の新しい事件が世界に起こっているに違いない」という「とほうもない期待」に応えるためには、ニュースを「製造」するしかない。
(次ページでは、「膨大なニュースが製造されるとどうなるのか」)